かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

写真が「記録」を無価値にし、観念の時代へ移った

本田勝一の『ルポルタージュの方法』を読んでいたら、自身のルポルタージュの原体験となる作文について、「見たこと、聞いたこと、思ったことがすべて書かれていた」と述べていた。

一見当たり前のことのようだけど、この一文がものすごく新鮮に感じた。

というのは、「すべてを記録する」というのは今、どれだけ行われているのだろう、と。むしろ、記録は無価値なものとして、特に若い世代には軽視されているのではないか、という仮説が浮かんだからである。

この本は、1983年の発行。本田勝一がその作文をしたのは1949年だ。
なんとなく、この頃の世代、そして団塊の世代までは記録の軽視ということはされていなかったと思う。

 

記録が「何にとって」無価値になったか

さて、記録が無価値なものとなってしまったとすると、その原因はなんなのだろう。

たぶん、「写真」なんじゃないか、とぼくは考える。

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写真が記録を無価値にする?逆ではないか?と思われる方もいるだろうが、少し考えてみて欲しい。

旅先にいって美しい光景に感動したとする。富士山なら富士山でいいし、古刹でも、おしゃれなカフェでも、インスタ映えするパンケーキでもいい。人は感動したらそれを「残したい」と思うらしく、みんな脊髄反射的にスマホを取り出し、写真を撮る。

写真には残った。これを記録された、と言えないこともない。

しかし果たして、その写真をどれくらいの確率で「見返す」ことだろうか。
また、写真を撮るにはほとんど労力がかからないので、写真を撮ったことすら忘れることだってあるだろう。

そうなのだ。
つまり、写真としては「記録」が残るかもしれない。
しかし、自分の中に「記録」は残らないのである。

記録が何にとって無価値になったかと言えば、「自分(個人)にとって」無価値になったということが言える。

 

絵とテキストと、記録と表現

では、自分の中に記録が残らないことでどういうことが起こったのか。

それを説明する前に、記録とは何か、それと両輪として存在する表現とは何か、について定義が必要になってくる。

……のでしかたなく、面倒くさいが書いてみる。

写真以前に存在した、見たこと、聞いたこと、思ったことを伝える手段には、「絵」と「テキスト」があった。

ここでは雑に、ひとくくりにしてしまうが、絵やテキストの目的は「記録することによって、誰かに伝えること」であった。

その誰かとは多くの場合、生活をともにする共同体の人たちであっただろう。例えば「ここには食べ物がある」とか、「これこれは危険だ」とか、教訓じみたものを残すことで、共同体の生存確率を上げる、というさらに上位の目的があったと思う。

さて、ここでいう記録は、絵なりテキストなりを「記述」しなければ成り立たない。

記述、という行為には必ず「表現」が付きまとう。

牛を描いたのだが、犬だと思われた。のように、表現(記述)が下手であれば「記録」にもならないこともあるだろう。

なので、「記録」が第一義としてあって、それと同時に「表現」が生まれる。

 

・記録が残らないことで、個人に何が起こったか

ようやく本題に入れる。記録が残らないことで、それは個人にどういう影響があったのか。

結論から言えば、目の前の現実に対して盲目になり、個人は観念の世界へ移っていった、ということである。

写真がない頃は、

・目の前の事物を経験する→記録&表現する

という段階を追った。

しかし、記録が無価値になったことで、その前段階である「経験」の価値も薄れてしまった。「なんとなくあんなことがあった」という抽象的なことのほか、忘れてしまうようになった。

でも何かで「感動」すれば、それを吐き出したい、誰かに伝えたいと思う作用が人間にはある。
でも自分の中には「なんとなく」しかない。

ならば、「なんとなく」をもとに表現するしかない。

そしてこの「なんとなく」こそが観念の世界である。そこに客観性はない。


絵を描ける人はデッサンというトレーニングを行い、観察からたくさんの情報を得られるようになるそうだ。

でも普通の人はデッサンのように絵を描けない。それは、「なんとなく」しかものを見ていないから。

 

「なんとなく」で伝わる範囲だけで生きる人々

「なんとなく」だと、誰かほかの人に伝わらない。それは当たり前のことだ。
でも今の世の中では、それが普通のことになってしまったのだと思う。

伝わらなくてもメシは食えるし、それほど危機感は覚えない。

また、「なんとなく」でもごく一部の、似たような境遇の人には伝わることがある。今はそれが、インターネットによって探せるようになった。なのでこちらも危機感がない。

そうして、「なんとなく」が伝わる人たちだけの狭い世界に、人は生きるようになる。

現実空間の中で「近くにいる人」にはだいたい伝わらないから、現実の人たちには無関心になっていく。

「写真」によって「記録が無価値」になることで「経験の価値」も下がり、「なんとなく」でしか私たちは世界を捉えなくなった。

インターネットによって「なんとなく」(観念)で理解し合える人に出会えるようになり、それ以外の人には無関心になった。

そうして世界は、分断を進めていく。