かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

発達障害と処方箋

発達障害というのは何ともあいまいな気分の言葉だなあと思うけれど、細分化すると以下のものを含むらしい。

自閉スペクトラム症ASD
・注意欠陥・多動性障害(ADHD
学習障害(LD)

こちらもあいまいと言えばあいまいだが、一応、病院で「診断名」として出せるものらしい。はっきりとした基準は設けられにくいようだけど。


さて、なんだか最近、発達障害という言葉をよく聞く。それが、下り坂の社会だから病気が増えているのか、昔からあったけれど最近になって「病名」が付けられたからなのかはよくわからない。

ぼくは昔、ADHDだとかいう言葉が騒がれはじめたとき、病院が悪いと思っていた。というのも、ASDやらADHDやら病名を付けるけれども、誰しもバラツキがあって、それぞれに病気の程度も違う。ならば、あえて病名なんか付けることは、言霊という名のプラシーボ効果で、悪影響の方が大きくなるのではないか、と考えていた。

今思えば非常に短絡的だ。

これはコインの裏表のようなもので、「私の子供はちょっと人より発達が遅い…。なぜだろう…」と悩む保護者にとっては、病名が付くことはショックであるけど、「同じ人もいるんだ」と思えて安心材料ともなるだろう。

一方で、プラシーボ効果は人間だから避けられなくて、「想像上の症状」に寄って行ってしまうことはあると思う。

ただ、昔のぼくが間違っていたのは、別に病院が悪いわけではないということ。

コミュニティが大きくなると、偏差値というか「普通の人」の範囲が整えられてくる。分母の人数が大きくなるからできることだが、それによって、「標準以外」という「バラツキ」の方も観測できるようになる。「バラツキ」が観測できるようになったからこそ、発達障害という傾向が発見されて、病名として言葉付けできるようになってきたのではないかと思う。

要するに、社会が大きくなるにつれて起こる自然な要請として、発達障害の病名付けが行われてきたのではないか、という仮説だ。

 

発達障害に病名が付くのは、そんなこんなでよしとしよう。自然の摂理だ。

しかし、病院である以上、病名を付けたとしたら、それに対する処方箋もセットでつかなければならないはずだ。処方箋をどこまで出せるか、これが現在の課題なのだろう。

西洋薬や漢方薬を出しておけば治るようなものでもないだろうし、とすれば、家族や会社のサポートという処方箋が現実的な手立てとなる(たぶん)。

家族や会社のサポート、という話だと病院の手には余るし、行政のせいにしようにも、行政は個別の事例には踏み込めないから対処しきれないのではないか。

処方箋があるとすれば、互い互いの顔も性格もわかるような小さなコミュニティで生きることではないか。それくらい密接な間柄であれば、発達障害だろうが何だろうが、「この人はこういう人だ」という誰しもする人間理解の範疇に、発達障害という言葉も溶け込むのではないか。

コミュニティの規模が大きすぎるから、人は相手を「普通」を基準に見てしまう。細かな機微をいちいち感じようとなんかしなくなる。相手を認めるには、機微を感じなくては。それができるのは小さなコミュニティであろう。

小さなコミュニティは時代の流れでもある。