「呪い」は人と人との「間」にある
ぼくは呪いを信じている。
でもぼくの信じている呪いは、「脳波が飛んでいって相手に災難が起こる」だとか、「丑三つ時に藁人形に釘を刺すと相手に災難が起こる」だとか、そういう類のものではない。(これらをまったく信じていないわけではないけれど。)
そういう非現実的なものを持ち出さなくても、呪いはもっと、合理的な説明が可能だと思う。
蓄積される呪い
例えば、誰かが「悪い」行為をして、自分が嫌な思いをしたとする。
当然、自分には相手に対する悪い印象が残る。
このとき、自分は相手の悪い話を言いふらすわけではない。そんなのはカッコ悪い。
けれども、相手に対する話題が出てしまえば、相手を直接悪く言わないまでも、相手を快く思っていないことはなんとなく伝わってしまうものだ。
ここで、相手に対するネガティブイメージ(呪い)が、人たちの間に放出される。
そして、また別の人も相手の「悪い」行為によって嫌な思いをする。
さらに別の人も、相手によって嫌な思いをする。
彼らもまた、相手に対するネガティブイメージを人たちの間に放出していく。
そうやって人と人との「間」には、相手に対する「呪い=ネガティブイメージ」が蓄積されていく。どんどん、どんどんと。
ぼくは、その蓄積されていった「呪い」が一定の閾値を超えると、相手に対して顕在化するんだと思う。
「何か冷たく当たられる」から始まり、「いやがらせを受ける」となり、最終的には「殺されてしまう」ことだってありうる。
まとめるとこうなる。
①「悪い」行為をする
②誰かに悪感情を持たれる
③悪感情(呪い)が人と人との「間」に放出される
④別の誰かからも悪感情(呪い)が放出される
⑤呪いが蓄積されていく
⑥一定の閾値を超えると、相手に対して跳ね返る
ちなみにこれは「悪い」行為の場合だけれど、「良い」行為も同じ循環をたどる。
・情けは人のためならず
ということわざは、まさにこの循環を表している。