かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「信じる」の基準ってなんだろう 外の基準と内の基準

神様を信じるだとか、目の前の相手を信じるだとか、提出された企画を信じるだとか。

人間生きていれば何かを信じる/信じないという選択を迫られるときがある。

そのときに人は、何を根拠に信じるんだろう、とすこし考えた。


根拠にはふたつあると思う。
「外の基準」と「内の基準」である。

外の基準とは、社会全般、もしくはコミュニティ内で多数決的に信じられているもの
バイアスと言ってもよく、例えば、「人を殺してはいけないよね」とか「この市場は儲からないよね」とか、そういった類のもの。

法律もそう、囲碁や将棋における定石もそう、権力者がのたまう言葉もそう。

つまり、自分の試行錯誤や判断が必要なく、「そういうものだよね」で済まされるものが外の基準の定義である。


一方、内の基準とは、自分の経験によって培われた独自の基準のこと
「本当に人を殺してはいけないのか」といったことを自分の頭で考えて、「家族に迷惑がかかるから」とか「仇討ちをされるから」とか「遺族の辛さを思うと」とか「自分だったらさすがに死ぬのは嫌だな」とか、いろいろ考えて、自分の腑に落としたもののことである。

これはごく個人的な基準なので、外の基準と合致しないものも、人によっては多く出てくるだろう。


で、人はこの外の基準と内の基準をもって、バランスを取りながら信じる/信じないを決めているのではないか、と思う。


選択を迫られるものごとにも、「そこは譲れない」というものから「まあ、(どうでも)いっかな」というものまである。

それは個人の興味範囲(深くはアイデンティティ)によって異なるだろうが、対象と自分の「距離」によって、
・遠いものは外の基準を使って考えずに済ます=ラクをする
・近いものは内の基準を使って戦う=自分の尊厳を守る
ということを行っているのではないかなと思う。


ちなみに、外の基準も内の基準も変わっていくものだけど、
外の基準の変化がゆったりなのに比べると、内の基準は変化しやすい。

端的に言えば、子供の頃は内の基準なんてほとんど希薄で、
なぜかと言うと、内の基準を培う「経験値」が圧倒的に少ないから

だから子供は外の基準(親の言うこと、みんなが言うことなど)にすがるしかないし、
それによって翻弄される。でもまあ、それは誰でもそういうものだろう。


それが年を追うごとに経験を積み、内の基準が少しずつできあがっていく。
変化していくわけで、果ては成熟しきって変化しないところまでいくと、時代に置いていかれる人間が完成するわけである。老いとはそういうものとも言えるけれど、できれば時代には置いていかれたくないものだ。


今の時代、個人的な感覚では、20代では全然、内の基準はできてなくて、
30代でようやくそれなりのものができてくる感じがしている。

 

20代の苦しみは、できあがりつつあるけれど、まだ貧弱な内の基準を大事にしすぎて、
極めて保守的になるか、極めて攻撃的になるか、のどちらかにならざるを得ないところにあるんじゃなかろうか。

「タバコを吸う若者」に見る共通項 エネルギーの行き先について

タバコを吸う若い人が少なくなって、
でも、少ないとはいえ一定数いるわけだ。

そして、身の回りの彼らを見渡すと、
そこにはある共通項が見いだせる気がしたので、少し書いてみる。
(ぼくもその一員として)


結論から言うと、彼らの共通項は、

・エネルギー量が多く、それがうまく外に発散できていない人

なのではないかと。


ぼくは、人はそれぞれエネルギー量を持っていると思っていて、
それには、普通、多い、すごく多い、といったパターンがある。

一方で、今現在の仕事やプライベートの状況によって、
エネルギーの消費量が決まってくるわけだけど、
エネルギー量の多い人の方が、人より使わなきゃいけない分、エネルギーを余らせてしまうことが多い。

この行き所を失ったエネルギーはろくでもない方向に行くもので、
自分の「外」に行けば、買い物大好き、アルコール大好きなどに、
自分の「内」に行けば、考えすぎて鬱になったり、他人をやけに攻撃したりするようになる。

 

そしてタバコもこの一種であって、
「内」向きのエネルギーによる自傷行為なのではないか、というのがぼくの仮説である。


ここでいう自傷行為は、
「タバコが体に悪いからあえてやる」という直接的なものではなくて、
タバコを吸うことによって「社会的に攻撃されやすい存在になる」という関節的なもののこと。

社会や身の回りの人から攻撃されること(間接的な自傷行為)によって、余ったエネルギーを消費しようとしているのではないか、という意味である。


そう考えれば、昔から不良少年がタバコを吸うのも、
エネルギーが余ってることが原因、で解釈できるんじゃないかなあ。

逆に言えば、エネルギーが余ってることのサインでもあって、
エネルギーを余らず注げる別の対象が見つかれば、
タバコを吸う必要はなくなってくるのかもしれない。

 

いや、若い頃のエネルギー量は膨大だから、余らせてしまう人も100%出てくるだろう。

言葉ってムズカシイ 相反するものが同居する

さっきトイレに行ったときにふと、ぼくは間違っていない、と思った。

すると、すぐさまそれを否定し、「じゃああなたは、間違ったことをしたことがないのですか?」と語り掛けるもう一人の自分が出てくる。

人間は間違えるものでしょ?と。

それはそうだ。
まったくその通りだ。

ぼくが間違っている、ということも大いにあるだろう。

例えば個々の仕事を見ていったとき、売上が立っていないものもあれば、人を怒らせてしまったものもある。

それは、間違った、と言えなくもない。

でも、その仕事をしている最中は、間違っていない、と思って進めていたはずだ。

また、その仕事でその分野にすごく詳しくなったとする。
それなら、その仕事をやったことが、間違っていない、と言えるかもしれない。


言葉というものは曖昧なものだ。
相反するものが平気で同居できる。

話している人の立場、話の対象が過去か未来か、何を基準に話しているか。

そういうものによって、たとえ言葉は同じでも、受け手にとっての意味はコロコロ変化していく。


揚げ足を取る人がいる。

「前はこう言っていたのに、今は違うことを言うんですね」とか、「さきほどの話と矛盾していますよ」とか。

でも、そういう人は、表面的言葉からは見えない意味の違いだったり、状況の違いだったりを勘定に入れていない。

 

言葉は額面通りに受け取ってはいけない。
また、額面通りに受け取ることはそもそもできない。

そこには必ずすれ違いが発生するから。

でも。

そういうもんでしょう、と、思う。

「理屈」は役に立つ? 軽視される前提条件

川上量夫さんがNスペあたりで「理屈を信じている」と言っていた気がする。
理屈は、論理、ロジックと言い換えてもいいだろう。

要するに、AゆえにB、BゆえにCというように、
①定義を積み重ねていくことで、②単一の答えを生み出し、かつ③正当性を保証するものである(と思う)。

その有用性を否定する気はさらさらないが、
文系軽視、理系偏重の世の中では、理屈がちやほやされすぎているように思う。

でも、そこまで妄信してしまっていいものだろうか。

ここがぼくのモヤモヤの出発点であった。


理屈は先の解説の通り、

①定義を積み重ねる
②単一の答えを生み出す
③答えの正当性を保証する

という3つの段階に分解できると思う。


そして、いま、世の中で重視されているのはこのうち②と③の段階のような気がする。

・伝えたい話が友達の間でしか通じない。
・新入社員の言っていることが意味不明。
・新規取引先との意思共有が難しい。

そんな話がちらほら聞こえてくる中で、「みんな」が納得できる答えを生み出す手段として、理屈が求められている。そういう話だと、ぼくは思う。


しかし、ここで見逃されがちなものがある。
それが①定義を積み重ねる、である。


ここで、そもそも人と人との間で、話が通じなくなってきている原因を考えたい。
結論から言えば、それは価値基準の多様化にほかならないと思う。

極端な例だが、高校生が窓ガラスを割ることが「カッコイイ」とされていた時代があったらしい。ヤンキー風味の人たちであろうか。

でも、同じ時代でもおとなしい人たちはそれを「カッコイイ」とは感じなかったろう。窓ガラスがないから冬は寒い。迷惑だ。そんな感想だったろう。

「大人たち」はまた別の感想(「キレるコドモ」)を持っていたであろう。

良い例だったかは置いておいて、このように、それぞれの立場やコミュニティによって(すなわち価値基準によって)、同じ出来事があったとしても見方は変わるものだ。


理屈によれば、「A」の定義が一定であれば、誰から見てもただし「B」が導き出される。

ところが、価値基準が異なれば、そもそも「A」の定義付けを共有できなくなる、という状況におちいる。

ますます価値基準が多様になっている現代では、一定の定義である「A」が導き出される可能性は、どんどん低くなっているといって良いだろう。

結果、価値基準の異なるコミュニティでは、理屈を使っても相手には思うように伝わらない。

さらに、コミュニティ間の分断が大きければ大きいほど、理屈が役に立たなくなる可能性が高い。


そんなこんなで、理屈を妄信するのは怖いな、と思う次第である。


ちなみに、理屈には適用範囲があると思う。

ここでは「コミュニティ(複数人)にとっての理屈」を考えたので、①の定義付けの問題に焦点を当てた。

 

しかし、理屈は個人にとっても有効である。

そして、個人の中だけで理屈を使うのであれば、①の定義を共有する相手がそもそもいないので、①が問題になることはない。

そう考えると、理屈は一人の人間の中で使うのが最強だと言える。

 

まあ、そこで考えたものを他者に披露すると、即座に①の問題が噴出するわけだけれど…。

求められるのは正攻法か、裏道か 朝の通勤電車で思うこと

最近、電車で本を読む人が増えてきた感じがする。

これには2つの要因があって、
ひとつは、スマホで得られる情報(ニュース)なり楽しみ(ゲーム)の質が落ちてきて、ユーザー側も飽きてきたこと。

もうひとつは、家庭経済的な意味で、「このままじゃヤバイ」という危機感が強まってきたこと、であろう。


それはそれとして、ぼくは人が何をやっているのか、何を読んでいるのかウォッチすることが好きである。人のことをチラチラッと覗き見ているので(もちろんバレないように)、ちょっと気持ち悪い人に見えるかもしれない。


今日の朝、電車の中で30歳前半くらいの男性ノーマルサラリーマン(可もなく不可もない仕事をしそうなサラリーマンのこと)が本を読んでいた。

そうか。
こんな若い人にも「危機感」がちゃんとあって、自分の力を付けないとマズイ、と思っているんだな。

自分で勉強する、というのは結構重たい危機感が必要なので、そこまで社会は転がり落ちていることを意味する。


あとは、どんな本を読んでいるのかが気になる。

が、そこはありがたいことに、彼はときどき本を閉じ、本のタイトルがぼくに見えるようにしてくれる。

誰にも悟られないよう、目線だけをシュッと移動してタイトルを見る。

 

・働き方 完全無双

 

すぐさまamazonで検索。ああ、ひろゆきの本じゃないか。彼は2ちゃんねるの元管理人であり、論破の人としてテレビでもちょくちょく見かける。

本の説明文を読む。

・沈みゆく日本で、あなただけが無双状態で働くには、どうすればいいのか。
・働くときに考えるべきなのは、個人の「攻め方」と「守り方」の2つだ。
・「攻め方」というのは、能力を上げることではなく、「相対的に自分を有利にする方法」である。
・「守り方」というのは、企業の論理に絡めとられることなく、「最悪、クビになっても大丈夫な状態」にしておくことだ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4479796444より)

 

なるほど。
正攻法ではなくて、裏道、つまりいかにラクに人に勝つ方法を解説している本のようだ。
ちょっとこずるいが、賢いっちゃあ賢い。

 

それを30代ノーマルサラリーマンが読んでいたのだな。

ノーマルサラリーマンは、正攻法じゃなくて、裏道を求めていたようだ。
「なんかヤバイな」とは思っているけど、「うわ、ヤバイ」とまでは思っていない、ということ。


ぼくは、急がば回れ(=正攻法の方が結果的に得をする)だと思うんだけど、
まだそこまで期は熟していないようだ。

だって、30代だとあと4,50年は働くわけだし、裏道だけではなんともならんのじゃないか。

しかし、確かにそれくらいの社会情勢だよなあ、と腑に落ちた今日の朝であった。

モウセンゴケ属の輸入 失敗談

モウセンゴケの輸入に失敗した。
いろいろ調べて、忘れてしまうのがもったいないので、記録として残しておく。

 

●輸入開始

チェコBCPhttp://www.bestcarnivorousplants.net/)にて、食虫植物の種子を注文&植物検疫証明書を付けてで輸入。
そのうち2点、Drosera属(モウセンゴケ属)が含まれていた。


●問題の発生

荷物を追跡したところ、国際交換局へ到着し、川崎東郵便局にて「通関手続中」のステータスになっていることはわかった。

しかし、「通関手続中」の表示が4回も繰り返され、果ては「税関から名宛人に照会中」と表示されてしまった。

この表示になると、はがきが送られてきて何らかの対応(荷物の確認、破棄など)を迫られるらしい。

はがきを待ってもいいが、今回は税関に電話で問い合わせてみた。


●問題の原因① モウセンゴケ属の存在

問い合わせで分かったのは、Drosera属(モウセンゴケ属)が含まれていて、それで止まっている、ということ。

というのも、モウセンゴケ属の輸入は平成28年10月から規制が入っているからだ。

具体的には特定外来生物として「ナガエモウセンゴケ(Drosera intermedia)」が指定され、この種については原則輸入禁止(学術用途などならおそらくOK)になった。

※これは、ナガエモウセンゴケが意図的に自然放出され、繁殖していることに対する、「見せしめ」的な措置の模様(指定の際の議事録に詳しい→https://www.env.go.jp/nature/intro/4document/data/sentei/plant07/gijiroku.pdf)。

そしてこれに伴い、モウセンゴケ属全体も「種類名証明書の添付が必要な生物」として、通関が厳しくなった。

で、今回輸入しようとしたものは特定外来生物には該当しないものの、「種類名証明書の添付が必要な生物」として引っかかってしまったのである。

(実は、輸入手続き後に気づいたのだが、止めるのも面倒だし、まあ何とかなるだろうと高をくくっていた)

 

●問題の原因② 税関の管轄

モウセンゴケ属が引っかかったのはそれはそれとして、致命的だったのが税関の管轄の問題であった。

荷物は川崎東郵便局にあり、そこの税関で止まったわけだが、「特定外来生物にしていされているもの」や、今回引っかかった「種類名証明書の添付が必要な生物」の通関作業については、成田国際空港やその他主要空港の税関でなければ不可、ということだった。

参考1(Q7):https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/qa.html
参考2:https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/shiyou/yunyu.html#sec3

ならば、話は簡単だ。

「川崎東郵便局から成田空港へ移動して、そこで通関してもらえばいいじゃないか!」

そう、普通は考えるだろう。

でも、そんな簡単な話では残念ながらなかったのである。

税関を通っていない荷物は「外国貨物」という扱いになるらしい。
要するに、日本の中にありながら、まだ荷物は外国にある(=通関されていない)状態だ。

この状態だと税関の管理下にあって、勝手に動かすことはできない。
外国貨物を動かすには、保税輸送といって、税関に申請を出したうえで、(許可を受けた)専門業者のトラックなど運ぶ必要があり、処理が煩雑なことから一般的には通関業者に依頼するもののようだ。

しかし、個人が通関業者に依頼するのはハードルが高いらしく、費用も、まあ調べた限りでは1万、2万~はするとのことで…。

参考3:https://hunade.com/hozei-unsou

…といういろいろとややこしい仕組みがあって、「川崎東郵便局から成田空港へ移動する」ことは手間とお金を考えると現実的ではない、ということがわかった。

 

●結果

そうして今回、ぼくが取った選択肢は、税関で引っかかったDrosera属の2点を廃棄してもらい、残りを送ってもらうというものだった。

めでたしめでたし、とはいかなかった。

その点を税関に電話すると「こちら(税関)で勝手に捨てることはできないので、委任廃棄書(?)に署名捺印してもらう必要があります。書類は郵送します。」と。

その仕組みは正しいと思うけれど、ちょっと面倒ではある。
まあ、ぼくが悪いので仕方がない。


●振り返り

今回は、Drosera属が引っかかったわけだが、植物検疫証明書が付いているので、それが種類名証明書の代わりとなり、書類上は税関を通過してもおかしくない。

が、川崎東郵便局に行ってしまったのがマズかった。

そこに行ってしまったので成田空港へ送るのも難しくなってしまい、八方ふさがりとなってしまった。

一発目に成田空港に行っていれば、きっと問題なく通関できたのではないかと思う。

「国際郵便」だとダメ(=川崎東郵便局に行ってしまう)ということは、「https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/shiyou/yunyu.html#sec3」にも書いてあった。

> ※ 種類名証明書の添付が必要な生物を郵便で輸入することはできません。

なので、ここからは調査不足ではあるが、「国際宅急便」で送ればよかったのかなあ、と思う次第である。

 

シャイボーイと結婚

ぼくの友達に、シャイボーイがいる。

あるとき彼が恋愛関係で落ち込んでいて、女性と話すことを慣れさせるために(なんか偉そうだが)ガールズバーにいったことがある。

そこでぼくは驚愕した。

女性と話しているときの彼は、ぼくの知っている彼ではなかった。

いわゆる「仮面」をかぶっていたのである。

 

仮面とは何か、という話をすると、
それは他者からみて、または状況からみて、「その場に適しているだろう、と彼が判断した仮の人格」のことである。

さらに、その人格が持つ要素が「彼の中にはないもの」である必要がある。

仮に彼の中にある要素を増幅、または誇張して表現したものであれば、それは仮面とは言えない。感覚的に言えば、仮面をかぶっている状態は、無理をしている状態のことを指す。

 

さて、彼は早くに結婚したほうがいいタイプだと僕は思っている。
だから彼が結婚できる手助けを、できる限りしようと考えている。

 

そこでぼくができることは何か。
それは、まずは「仮面」を何とかして脱いでもらう、という点にあるのではないか。

なぜなら結婚とは、他者と長い時間をともに過ごすことだから。
長い時間を過ごす人間と接するとき、常に「仮面」をかぶっていることは現実的ではない。

たまに「結婚したら人が変わった」というゴシップ記事が出て、離婚の原因うんぬんが語られるが、それは結婚するまでその人が「仮面」をかぶり続けていて、それを相手も見抜けなかったことに、不幸がはじまっている。

 

なぜ人は仮面をかぶるのだろうか。

ひとつは、自分に自信がないからだろう。

これは根が深い問題なので、短期間でかんたんに変えることはできないが、つらい人生を送りたくなければ長期的に取り組んでいかなければいけない問題である。

 

もうひとつは、経験値がないから、だと思う。

経験値がなければ相手の反応はわからない。
だから自分の「素」でいくよりは「仮の自分=仮面」でいったほうがマシ、という考え方も出てくるし、また、その方が自分が傷つかない。そこに仮面をかぶることの必然性が生まれる。

ここで、自信と経験値は大いに関係があることに注意したい。

自信がないから新たな経験に踏み出せないし、経験値がないから自信を持つことができない。

つまり、トレードオフの関係にあるのだ。

 

しかし、経験値を得ることは、自信を持つことに比べれば短期的にできる、という特徴がある。

彼が変わるとすれば、経験値を得ることからしかないだろう。

 

そんな彼は、同じくシャイな友達と一緒に街コンに行ったらしい。

それを聞いて、彼の夜明けは近い、とすこしは晴れやかな気持ちになった。