かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「理屈」は役に立つ? 軽視される前提条件

川上量夫さんがNスペあたりで「理屈を信じている」と言っていた気がする。
理屈は、論理、ロジックと言い換えてもいいだろう。

要するに、AゆえにB、BゆえにCというように、
①定義を積み重ねていくことで、②単一の答えを生み出し、かつ③正当性を保証するものである(と思う)。

その有用性を否定する気はさらさらないが、
文系軽視、理系偏重の世の中では、理屈がちやほやされすぎているように思う。

でも、そこまで妄信してしまっていいものだろうか。

ここがぼくのモヤモヤの出発点であった。


理屈は先の解説の通り、

①定義を積み重ねる
②単一の答えを生み出す
③答えの正当性を保証する

という3つの段階に分解できると思う。


そして、いま、世の中で重視されているのはこのうち②と③の段階のような気がする。

・伝えたい話が友達の間でしか通じない。
・新入社員の言っていることが意味不明。
・新規取引先との意思共有が難しい。

そんな話がちらほら聞こえてくる中で、「みんな」が納得できる答えを生み出す手段として、理屈が求められている。そういう話だと、ぼくは思う。


しかし、ここで見逃されがちなものがある。
それが①定義を積み重ねる、である。


ここで、そもそも人と人との間で、話が通じなくなってきている原因を考えたい。
結論から言えば、それは価値基準の多様化にほかならないと思う。

極端な例だが、高校生が窓ガラスを割ることが「カッコイイ」とされていた時代があったらしい。ヤンキー風味の人たちであろうか。

でも、同じ時代でもおとなしい人たちはそれを「カッコイイ」とは感じなかったろう。窓ガラスがないから冬は寒い。迷惑だ。そんな感想だったろう。

「大人たち」はまた別の感想(「キレるコドモ」)を持っていたであろう。

良い例だったかは置いておいて、このように、それぞれの立場やコミュニティによって(すなわち価値基準によって)、同じ出来事があったとしても見方は変わるものだ。


理屈によれば、「A」の定義が一定であれば、誰から見てもただし「B」が導き出される。

ところが、価値基準が異なれば、そもそも「A」の定義付けを共有できなくなる、という状況におちいる。

ますます価値基準が多様になっている現代では、一定の定義である「A」が導き出される可能性は、どんどん低くなっているといって良いだろう。

結果、価値基準の異なるコミュニティでは、理屈を使っても相手には思うように伝わらない。

さらに、コミュニティ間の分断が大きければ大きいほど、理屈が役に立たなくなる可能性が高い。


そんなこんなで、理屈を妄信するのは怖いな、と思う次第である。


ちなみに、理屈には適用範囲があると思う。

ここでは「コミュニティ(複数人)にとっての理屈」を考えたので、①の定義付けの問題に焦点を当てた。

 

しかし、理屈は個人にとっても有効である。

そして、個人の中だけで理屈を使うのであれば、①の定義を共有する相手がそもそもいないので、①が問題になることはない。

そう考えると、理屈は一人の人間の中で使うのが最強だと言える。

 

まあ、そこで考えたものを他者に披露すると、即座に①の問題が噴出するわけだけれど…。