かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「内」の基準でなにごとも決めたい

常識とかルールとか、
そういう「外」の基準じゃなくて、
「内」の基準でなにごとも決めたい。

最近、切にそう思っている。

外の基準ってのは、自分がどうこう思っているのとは関係なくて、
思考を止めてエイヤッって枠にはめること。

そうすると、その判断に自分は関係ないから「面白さ」なんて感じられるはずもないよね、という。

でも「外」の基準で判断するって流れは、たぶんまだまだ続くんじゃないかな、とも思っている。

それはやっぱり、インターネットというものがあるから。
そして未来、この国を形作る子供たちは、それから逃れられないと思うから。

インターネットというすごく便利なものがあって、
それにアクセスしちゃいかん、ってのは無理な話でしょう。

ムリムリ。

インターネットにアクセスしちゃえばね、そこにはなんでもある、と思っちゃうでしょ。

でも、全然そんなことはなくて、そこにあるのはすべて「外」の基準なの。
誰かが決めた、「外」の基準。

それが無数にあれば、ものを考えなくなるよね。
内の基準は、間違いなく育っていかない。


ちなみに、内の基準がない人間が多くなってきたら、
それこそきっと、戦争の時代に突入する。

みんな、扇動者という外の基準に向かってガーッと進むだけだから。

 

でも、ちょっとここで立ち止まって考えたいのは、
「みんながみんな、そうなるのか?」ということで。

実際、うちの奥さんは内の基準がしっかりある人だし、
その友達もだいたいそう。

でもぼくの友達は違って、「外」の基準から逃れられない人が多い。
内の基準が希薄だ(ぼくも含めて)。

 

これはもしかしたら、今、男がダメになっていることと関係しているのかもしれない。

女性は内の基準を持っていて、男性は外の基準に振り回されている、というような。

 

この答えを探すとすると、
男女の志向性の違い、ということになるんじゃないかな?

ぼくの勝手な定義だけれど、
女性的な志向性は、内にやさしく、外に冷たく、というもの。
一言で言えば、コミュニティ志向であって、「内」に価値を見出す。

男性的な志向性はこの逆で、内に厳しく、外にやさしく
「外」に価値を見出す。

 

そう考えてみると、女性は「外」の基準に対してあまり価値を見出していない、ということになるから、インターネットに振り回される確率は下がる。

内には「友達」がいて、そこに生身の対人関係があって、
そこで内の基準が育っていく

 

そういうことじゃないかなあ。

もっというと、現実に居場所さえあれば、インターネットの世界には逃げ込まない
その意味でも女性の方が現実に居場所を持ちやすく、男性は持ちにくい。

そうして男は「外」の基準に振り回されて、
人生おもんないなあ~、と言いながら過ごすことになる。

 

そういう時代なんじゃないかなあ。