吉本問題について思うこと
吉本問題について、島田紳助さんの有料記事(文春オンライン)を読んだ。
Twitter民の中には「今さら出てくるな」とかいう論点ずらしで、何か言ったふうに思っている人もいるが、それはさておき。
わかっている人(紳助さん)は、説明が明快だということ。
これが端的にわかる記事だった。すごい。
詳しくは読んでみていただきたいが、ここでは、有料記事を読んで吉本問題について思ったことを書く。
一つの「ものさし」でしか持たなくなった民衆
芸能プロダクションの「契約」が口頭契約だったから問題、とかいう話が出ている。
これはメーカーやら飲食店やら、多くの労働者が働く「フツーの会社」と比較してモノを言っているから問題とされているのだろう。でなければ、何を根拠に問題だと言っているのかわからない。
でも本当は、組織の形(構造)はそれぞれが違うものだ。
そもそも組織というのは、時が経つにつれて「最適な形」に収まっていく。
それが長く維持されていき、まあそのうち時流に合わなくなっていくわけだけれど、あるところまでは、最適な形に自然となっていく。
だから、吉本の契約が口頭契約だった、というのは、それが「最適な形」だったからそうなっていたわけで。
「吉本はちゃんと契約せい!」と批判する前に考えるべきは、なんでそれが最適な形だったのか、ということではなかろうか。
でもなぜか、誰もそこを考えない。
これはやっぱり、「フツーの会社」が正しい、という「ものさし」しか、みんな持っていないからだと思う。いろんな形の会社がある、ってことを知らないからだと思う。
なぜそうなったのか。
一言で言えば、日本が成熟しきってしまったからだろう。
昔はいろんな人がいた。ぼくのような30代前半の人間では、少しの実体験しかないけれど、それでも小学生にヤクザの子がいたり、チンピラの子がいたり、または人を殺してしまった人の息子が真面目にお店をやっていたりした。
そんな人たちが周りにいれば、「世の中にはいろんな人がいる」ということは当たり前にわかるものだった。
ところが今は、とかくクリーンな世の中だ。
蛮性と言っていいのか、動物的な人はいなくなってしまったし、お行儀のいい人ばかり。グレたとかいっても、想定の範囲内に収まる人ばかり。突然奇声をあげるご近所さんもそうそういない。「いろんな人」なんていなくなってしまった。
そうなると、「フツーの人」「フツーの会社」が大多数になる。それを基準にものごとを考えればよくなる。そして、その基準に当てはまらないものに対しては思考停止し、「変だ」「おかしい」という脊髄反射をするようになる。
でも本当は、フツーなんてないのだ。
自分の目と頭で、ものを観ていないから気づかないだけなんだ。