『日本語の作文技術』 文章力アップにつながる国語の基礎力
「これでいいのだろうか」と不安ながらに文章を書くことはストレスだ。なんでだ、なんでだ、と思いつつそのままにしていたが、たまたま『日本語の作文技術』という本に出会った。
日本語を書くのに必要なのは国語力である。この本でそれがわかった。「なんとなく」でやっていたことがきちんと裏付けされるので、国語力の土台作りになる。言葉を扱う人は、全員が読んだほうがいいんじゃないかとすら思えるほどだ。
参考として、目次をAmazon商品ページから引用しておこう。
【目次】
●第一章 なぜ作文の「技術」か
●第二章 修飾する側とされる側
●第三章 修飾の順序
●第四章 句読点のうちかた
1.マル(句点)そのほかの記号
2.テン(読点)の統辞論
3.「テンの二大原則」を検証する
●第五章 漢字とカナの心理
●第六章 助詞の使い方
1.象は鼻が長い――題目を表す係助詞「ハ」
2.蛙は腹にはヘソがない――対照(限定)の係助詞「ハ」
3.来週までに掃除せよ――マデとマデニ
4.少し脱線するが…。――接続助詞の「ガ」
5.サルとイヌとネコとがけんかした――並列の助詞
●第七章 段落
●第八章 無神経な文章
1.紋切型
2.繰り返し
3.自分が笑ってはいけない
4.体言止めの下品さ
5.ルポルタージュの過去形
6.サボリ敬語
●第九章 リズムと文体
1.文章のリズム
2.文豪たちの場合
※引用先:https://www.amazon.co.jp/dp/4022618450/
中でも面白いのは、二章、三章の「修飾」と、四章「句読点」、六章「助詞」だ。ここでは、面白かった一説「主語不要論」を紹介しよう。
これは英語と日本語との比較から解説される。まず著者は、
・英語は強力な「主述関係」を作る。
と説明する。
確かに英語では、「I」「He」「This」などの主語が文頭に来て、それを述語(動詞)が受けるのが基本パターンだ。そこには「強い主語」があって、述語は主語にひれ伏しているイメージがある。
対して日本語は、それぞれの言葉がどこに配置されてもよい文法を持つ。
例えば、「私は鳥を愛している」は「鳥を私は愛している」と言い換えられるように、「主語」は後ろにきてもよい。この点が英語と日本語では大きく違い、主語にあたる「私は」は英語ほど強い存在ではないことがわかる。むしろ、「鳥を」も「私は」も「愛している」もすべて同列である、とすら言える。
だから英語で「主語」にあたるものは、日本語には存在しない。あるのは「主格」のみである、というのが主語不要論の骨子である。
※ちなみに、この論は著者が唱えたわけではなく、別の学者が唱えた論に著者は同調している。
……「主語は大事」と習ってきたし思ってきた今までは何だったの!
これを読んだ時には本当にそう思った。日本語には主語がなかっただなんて。いや、正しく言えば主語はあるにしても、「主格」として、他の言葉と同列だと考えたほうが自然だ。
思うに。たぶんこれは、中高の英語教育の影響なのだと思う。
日本語の文法を習うのは、たしか小学校だし、私自身ほとんど覚えていない。でも中高の英語教育はそれなりに覚えていて、なにやら「SVC」だとか「SVO」だとかいう文法の並びを覚えている人も多いだろう。
この英語の文法によって、日本語の正しい文法が上書き保存されてしまったんじゃなかろうか。
以下は蛇足。
本の中にもあったと思うが、「日本語にも主語がある」と思われてきたのは、明治からはじまる西洋かぶれによるものでもあると思う。30歳そこそこの私にはピンと来ないが、50歳以上のおじさんたちは金髪のネーチャンが好きだったり、ジャズが好きだったりする。また、夏目漱石の『私の個人主義』を読めばわかるように、昔は「西洋から借りてきた知識」を自分で咀嚼すらせずに吹聴する大衆がいたようである。そんな世界がかつてあったとすれば、「英語には主語があるから、それを日本語にも適用しよう」という流れはごくごく自然なものだったのだろうと思う。
【2019/6/14追記】
遅ればせながら、本書の「解説」を読んだ。着目点は本記事とほとんど同様だった上、さすがに文章もうまく読みやすい。書店に行くことがあれば、「解説」だけでも読んでみることをオススメします。