かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「自分を見失う」とは何か その3 自我の受け皿としてのオンラインサロン

その2の続き。

「自分を見失う」とは何か その2 自我の復権

 

共同体が機能しなくなったために、婚姻率が下がり、自分で自分をアピールする必要が出てきた。それが、自我がうるさくなってきた理由とした。

さて、今回は共同体のカタチの変化を書こうと思う。

既存の共同体は劣化した。というより、共同体は常に劣化するのが普通である。新陳代謝が進まず、古い体質が積み重なっていき、やがて死に至るものだ。

その1で述べた「自分を見失う」ということ。これは共同体と自我の対立としたが、別に「自分を見失う」ことが悪いと言っているわけではない。例えば共同体の文化が素晴らしいものであれば、自我をもって反発する必要は必ずしもないから。

既存の共同体は劣化している。それに応じて、文化も劣化している。その劣化した文化を、受け入れる(守破離の「守」)に値しないものと感じるからこそ「自分を見失う」という現象が起きる。そう言えなくもない。

では、共同体は今、どうなっているのだろう。時はネット時代だ。

ひとつは、既存の共同体が劣化しつつも生きながらえている。実際に社会を回しているのはまだまだ会社だし、そこに属するのが、一般大衆の経済的生存戦略として有効な一手と言える。

一方で、オンラインサロンなど、ネットを介したコミュニティができつつある。これをどう見るか。

ここで見るべきは、共同体が何をもって構成されているかである。

会社なら「経済=お金」だし、オンラインサロンなら「共感」だ。

ただ、「共感」は共同体の軸としては弱いと思う。だって、人間が生きるにあたって、必ずしも必要なものではないから。持続力も弱い。瞬間的に生まれた共感は、すぐどこかへ行ってしまうと思う。

しかし。それでもなぜオンラインサロンが流行っているかと言うと、私の考えでは、オンラインサロンが自我の受け皿になっているからだと思う。

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自我は、生物としての人間が、生殖本能を満たすための自己アピールそのものであった。ならば、「何かしらで優れる」ことがなければそもそもアピールを行えない。

「何かしらで優れるために。力を付けるために。スゴイ人に学ぼう。」

その機会の場がオンラインサロンになっているのではないだろうか。

 

以下は余談。

オンラインサロンを維持しようとするならば、「共感ベース」の共同体から「信仰ベース」に変える必要があると思う。つまりは「信者を盲目にする宗教化」である。巷でもオンラインサロンは宗教だと言われているようだが、今はそうでなくても、そのうちそうなっていくと私は思う。

一度成立した共同体は、規模が大きいほど解消が難しい。しかも共同体のトップは儲かるので、共同体を維持しようとする。

しかし今、共同体は「共感」を軸に構成されており、これでは弱い。だから、信者を盲目にしていく必要がある。