かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「自分を見失う」とは何か その1 共同体と個人

社会に出る年齢になると、ほとんどの人は会社なり、なんらかの共同体に入ることになる。そこで仕事のイロハを教わっていくわけだけど、そのうち「自分を見失うから辞めたい」という人が出てきたりする。辞めたい、とまではいかなくても、なんとなくつらい、という人は結構いるんじゃないか。

では「自分を見失う」というのはどういうことなんだろう。

武道の世界には「守破離」という言葉がある。「守」は先輩の教え(=文化)をあるがままに受け入れて血肉とし、「破」はその教えをベースに自分なりのアレンジを加えていくこと。そして、「離」は独立を意味し、共同体から離れることを指す。

仕事のやり方は、会社などの共同体ごとに「文化」として存在している。その文化を自分の中にインストールすることが仕事を学ぶこと、つまり「守」だとすれば、そこで重要なのは「自我」を排すことにあるだろう。なぜなら自我が幅を利かせていれば、インストールするための容量が取れないからだ。

しかし、今は自我の時代だ。(若い人たちはいつの世も自我のお化けなのかもしれないが)周りの若い人を見れば、とにかく自我が強く、パソコンのハードディスクで言えば「空き容量」が少ないように感じる。

そんな状態で「守」をやろうとすれば、共同体の文化も入っていかないし、先輩やらに無理やり文化を押し付けられているとすら感じることだろう。だが、共同体にいるのであれば、文化を受け入れなければ排除されるものである。そして文化に自我が押し出された結果、「自分を失う」という状態が起きるのではないか。

まとめると、「自分を失う」とは共同体の文化と自我(個人)が対立し、自我が敗北した状態のことではないか。