「自分を見失う」とは何か その2 自我の復権
その1の続き。
「自分を見失う」とは、共同体と自我(個人)の戦いに、個人が敗れた状態ではないか。それが前回の結論であった。
共同体と個人の対立。それはよくある話、というか人間は何かしらのコミュニティに属しながら生きているので、死ぬまでなくならない永遠のテーマである。
さて、今回は「そもそも自我とは何か」について書こうと思う。
個人にとって自我と何か。
私の結論を言うと、生殖本能による自己アピールだと思う。
人間は生物だ。これは否定できない。そして生物とは、自己複製、つまり生殖を原則とするものである。
生殖を実現するために、世に存在するあらゆる生物は自分がいかに優れているかをアピールする。例えば鳥なら、さえずりや求愛ダンスで聴覚に視覚に訴える。人間でも、歌がうまかったり、美形(メイクも含む)だったりすると繁殖行動上で有利に働くことは誰しもわかる。
生殖本能として、自分の優れている点をアピールする必要性が生物にはある。人間にももちろんある。それが自我の正体なのではないかと思う。
なので自我は大昔から存在していたはずなのだ。「自我」と名付けられたのが人類史においてごく最近のことだとしても。
さてさて、ここで疑問なのが、「なぜ最近、自我がやたらと取り沙汰されるのか」ということ(自己承認ブーム、瞑想ブームに見られる)。
自我自体は昔から存在していたにも関わらず、なぜ最近、声高に叫ばれるのか。
この問題は単純に、生殖本能が満たされていないからではないかと思う。未婚率を見よ。性体験の未経験率を見よ。それで十分証明できるではないか。
で、ここからが言いたいことなのだが、なぜ未婚率などが上がったのか。それは、共同体が機能しなくなったからだと思う。
昭和期なら、地域の共同体に「お見合いおばさん」がいた。会社という共同体も、男性社員の結婚相手として女子社員を採る風潮があったようだから、それ自体が結婚相談所の役割を果たしていた。
それが過去の話になった。まあ、そのシステムにもいろいろと問題があったから解体されたわけだけれど、ともかく、自分で結婚相手を探さなくてはいけなくなってしまった。
となると、自分をアピールする欲望、イコール、自我の復権である。