生存戦略としての「井の中の蛙」
現代は、情報があふれにあふれている高度情報社会。
その兆しは20世紀後半からあった。出版文化によって徐々に情報は増えてきた。しかし、それを爆発させたのはインターネットだった。
そんな状況の中で、情報が増えすぎてみんな困っている、みたいな話がよく言われる。けれども、「困っている」という意識はあんまり持っていないんじゃないか。私は別に困っていると感じない。
でも。今感じている苦しみが、おおもとをたどれば情報社会に起因しているってこともあるかもしれない。今日はそんな話を書いてみる。
価値基準はインターネット上にはない
「真善美」という言葉がある。それぞれに反対語を付けると「真偽」「善悪」「美醜」となるが、これはものごとを判断するための基準として使えるなあ、とある本を読んで思った。例えば以下のように。
①日本ではタバコが生産されている →真
②タバコを吸うのは悪いことである →悪
③タバコを吸うのはカッコいい →美
①の「真」はともかく、②と③については人によって意見が必ず分かれる。つまり客観的な答えがないものである。結局は「自分」がどう思うかでしかなく、自分の方に基準がなくてはいけないのが「善」と「美」だ。
しかし、インターネットの登場により、インターネット上には「客観的な答え」がすべて存在していると「勘違い」されている節がある。
そこに落とし穴がある。調べても調べても、そこには客観的な答えなど存在しない。インターネットでいくら調べても、「善」だと思う人もいれば「悪」だと思う人もいる。「美」と思う人もいれば「醜」と思う人もいる。それぞれの立場からの意見が、インターネットの上にはあるだけだ。
情報の激流の中では判断基準が育たない
川の流れが速すぎると、岩にしがみつかなきゃ流されてしまう。体にグッと力を入れて、岩にしがみつくことだけを頑張る。その間、他のことは何もできなくなるし判断する余裕もなくなる。
インターネットに慣れ親しみすぎるということは、情報の中の激流に身をゆだねるということだ。でも、インターネットから距離をとることは自分の判断でできる。
だから、そこから離れてはどうだろうか。
井の中の蛙大海を知らず、ということわざがある。
井の中の蛙大海を知らずとは、知識、見聞が狭いことのたとえ。また、それにとらわれて広い世界があることに気づかず、得意になっている人のこと。
(故事ことわざ辞典、http://kotowaza-allguide.com/i/inonakanokawazu.html)
このことわざは否定的な意味で使われることが多かったけれど、それは情報が少なかった昔だから、ではないだろうか。
むしろ今はインターネットのせいで、井の中の蛙でいること自体が難しくなっていると思う。
井の中の蛙でいられることそのものに価値があるのではないか。
もちろん、いきなり大海に出るとライバルが多すぎて死ぬ。だからその前に、大きな世界でも生きていけるようにするための力を身に付ける必要がある。そのためには井の中で熟成された方がいい。