分類することが善悪を生む
ぼくは駅の階段をのぼっていた。
そこには「のぼり」「くだり」という文字が書いてある。
右側が「のぼり」で、左側が「くだり」だ。
ぼくは当然、「のぼり」と書いてある右側を歩く。
けれど、上からおばさんが右側を歩いて降りてくる。
おいおい、そっちは「のぼり」だろう。
ぼくはしばらく同じ側を歩いていたが、おばさんは気づかない。
衝突してもしょうがないので、しかたなく「くだり」の側をのぼっていった。
そのあとには、モヤモヤした気持ちだけが残った。
でもふと思った。
そもそも「のぼり」も「くだり」も書いてなければ、ぼくはモヤモヤすることはなかったのではないか、と。
「のぼり」と「くだり」と書くことで、善悪が生まれる。
「のぼり」と書いてある方は、のぼってくる人が使うのが正しくて、くだってくる人が使うのは間違っている、ということになる。
でも、なんかいやだなあ、どうでもいいじゃん、と思ってしまう。
たぶん、その階段は多くの人がのぼりおりするから、昔、人と人がぶつかることでもあったのだろう。
だから、「のぼり」「くだり」に分類して、ルールを作ったんじゃないか。ぶつかる事件を避けるためと、階段の管理者に責任が及ばないために。
その意図はわかるけども。
ぼくたちはたぶん、なんでも分類しすぎているんじゃないだろうか。
分類しすぎるから、モヤモヤ、イライラするんじゃないかなあ。
ぼくはそう思う。