いい写真ってなんだろう 価値は「被写体」にあるか「表現」にあるか
写真のSNS、インスタグラムが全盛だ。
なんで写真周辺がこんなにも盛り上がっているのだろう。
・デジタルカメラが安くなり、普及したから?
・スマートフォンのカメラ性能が上がったから?
・ネット回線が太くなり、画像のやり取りが用意になったから?
写真を取り巻く状況としては、たぶんそういうことで、「環境」が整ってきて「写真人口」が増えているのだろう。
一昔前には、「写メを送ると高いから」なんてガラケー時代があった。すでに隔世の感があるが……。
さて、本題に入ろう。
写真を見ると、いい写真と、いまいちな写真がある。
感覚的な話だが、誰しも同意してもらえるはずだ。
では、いい/いまいちの基準はどこにあるのだろうか。
なぜ、いい/いまいちと感じるのだろうか。
「価値」を切り口にして、考えてみたいと思う。
写真の「価値」は、撮られるものか、撮るものにある
ダイヤモンドには価値がある。なぜなら数が少なく、希少であるから。
基本的には価値はこういうもので、希少性がそのまま価値の指標になる。
では、写真における価値とはなんだろう。
ご存知の通り、写真が生まれるためには撮られるものと撮るものが最低限必要だ。
そこでよく言われるのが、写真には「撮られるもの=被写体」に価値がある場合と、「撮るもの=表現」に価値がある場合に分かれるということ。
撮られるものに価値があれば(例えばAKB的なもの)、それはいい写真と言えるかもしれないし、撮るものに価値があれば(例えば美しいライティング)、それはいい写真と言えるかもしれない。
撮られるもの=被写体の価値
具体的に見ていこう。
撮られるものの価値とは、例えばこんなものだと思う。
・人
顔の造形の美しさであったり、シェイプのおかしさであったり。前者は新垣結衣、後者は渡辺直美。ほか、芝居がうまいだとかで「名声」を獲得している人にも被写体としての価値がある。
・過去
20世紀前半のパリの路地裏だったり、アメリカの農村であったり。今は存在しないものには最大限の希少性が生まれる。
・クローズドな世界
インスタグラムを例にすれば、例えば芸能界。芸能界の中身は一般に見る機会が少ない。芸能人たちはどう日常を生きているのか。誰と仲がいいのか。収録風景はどんな雰囲気なのか。多くの芸能人たちがインスタグラム上で取る立ち位置は、クローズドな世界を見せる、というポジショニングだろう。
・秘境
その場所に行くことが困難であれば、希少価値が生まれる。8,000m級の山であったり、アマゾンの奥地であったり、深海であったり。ただ、これだけカメラが普及してしまった現代では、「そこそこ生きにくい場所」ではもう誰かしらが写真を撮っており、希少性は生まれなくなっている。残されている秘境的なものといえば、戦争地域くらいだろうか
・文化的なタブー
青山裕企が撮る女子高生(風)の写真集が代表格だと思う。「クローズドな世界」と近いかもしれないが、「写真を撮っちゃだめそうなもの」を撮ることが「文化的なタブー」の意味。エロ本の写真もここに入る。エロ以外にはバイオレンスもこの分類だろう。
撮るもの=表現の価値
次に、撮るもの=表現の価値を見ていこう。前段の被写体の価値に比べると、こちらは大いに複合的なものだ。希少性という観点から見れば、価値が生まれるのは「極端に振ったもの」、例えば日常生活では考えられないほど明るい写真、暗い写真などだ。
・明るさ(受動的な光)
明るいか、暗いか。
・ライティング(能動的な光)
ストロボをどこから被写体に当てるか。レフ板をどこに使うか。
・色
モノクロか、過剰な色彩か。
・構図(ポジション/アングル)
どこを切り取るか。
・画角(レンズ)
広角か、望遠か。構図とまとめてもよかったけれど、こちらは機材側のものなので分けた。
こうして考えてみると、表現それ自体だけで価値を生み出すのは非常に困難かもしれない。どれもカメラの機能であって、その機能には限界がある。
極端な多重露光でほとんど被写体の価値を消し去り、形式(カメラ表現)の面白さを出すことはできるけれど、もう(たぶん)20世紀前半にやりつくされてしまっている。表現だけを追い求めても、残されたブルーオーシャンは存在しないのではないか。
とすると、現代においてまず何よりも大事なのは「何を撮るか(被写体の価値)」であって、「どう撮るか(表現の価値)」は二の次なのではないか。
表現の価値を追う技術屋としてのカメラマンは、なかなか食べていくのが難しいという現実が見えてくる。
ということで、いたって普通の結論になってしまった。
けれど、上記の細かい分類は、写真を撮る上で、また見る上で役に立ちそうなので公開しておきます。