フェイクニュースとか言って、みんな結局ウソが好きなんだろう
前に、写真が「記録」を無価値にした、と言う記事を書いた。
記録とは、事実の記録のことである。
事実の記録は写真が担保してくれるようになったから、我々はしっかり目でものを見なくなったし、耳で聞かなくなった。
それによって頭や心でものを見て、聞く、「観念」の時代に移った。
ざっくり説明すればこういうことを書いたと思う。
少し前に、シリアでISに捕まった日本人の方がいたと思う。
フリーのジャーナリストという立場だったらしい。
ジャーナリストの仕事は何か、というと、「事実」を目で見て耳で聞いて、それを広く伝えることが職務ということであろう。
だいたい世に報道されるジジツとは体制側から発信されたものが多く、それらは、体制側に都合よく加工されたものである。それは「事実」とは言わない。
本当の意味で「事実」を明らかにするには、体制側の情報だけから判断するのではなく、弱者の側からも情報を得なければならないわけだ。
彼は弱者の側に赴き、「事実」を知り、広めんとする自分の仕事をまっとうした、のかもしれない(詳しくは知らないが)。
そんな人間に対して、救出後、国民が向けた言葉は何だったか。
迷惑だ、とか、行く意味がわからない、とかいう批判的な言葉だった。
「事実」を求めた人を否定したのである。
何を言っている、ジジツならすでに報道されているじゃないか。と言う人もおられるかもしれない。でもそれは事実の可能性もなくはないが、たぶん、ジジツではないか。
でもジジツでみんな満足しているのが、今の日本の段階である。
「フェイクニュース」でいいわけである。
「フェイクニュース」が好きなのである。
「事実」はむしろ、知りたくないのだ。