「記録」を残す意義がわからない人たち
先ほどの、フェイクニュースの記事の続き。
京アニの事件にて、共同通信が遺族や親友の方々に向けて「取材に応じて欲しい」という声明を出したようだ。
が、どうもこれが炎上しているらしい。
理由は「遺族の気持ちを考えろ」とのこと。
さて、それはそれで、ごもっともだと思う。感情的には理解できる。
さてその一方で、「記録」して残しておくってこともすごく大事なことだと思うんです。
例えば、「2011年には震災がありました。記録は残っていません。」という状況だとどうだろう。
ジャーナリストの怠慢だという話にならないだろうか。
それが、「遺族の気持ちを考えろ」と言って正義ぶっている人には伝わらない。
彼らは観念の世界にいるのだから。
あ、もしかしたら、観念の世界には「時間」の感覚がないのかもしれない。
もっというと、「空間」の感覚もないのかもしれない。
観念、だもの。
ああ。太平洋戦争には、こうやって入っていったのだなあ。
観念の世界に生きる多数の民衆がいて、ごく一部の実務に優れた人が彼らを現実世界でひっぱっていく。
あの頃も、誰かの言うことを鵜呑みにして、それにつき従っていった。
これは「不安」だからそうなっていったんだと思うけれど、その態度って、「不安」の根本的な解決にはならないと思うんだ。
自分の目で、耳で、事実を見ていないから。