かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

Twitterは鍵付き運用の時代へ

ぼくがTwitterを止めてからしばらく経つけれど、
どうもある人が炎上しており、鍵付きアカウントにしたらしい。

一連のツイートを読んでみたけれど、
鍵付きにするのは圧倒的に正しいな、という結論に達した。

そのポイントは、「自由な発言」は何によって「阻害」されるのか、にある。

 

「文化」による阻害

ぼくがTwitterを止めたのは、単純に面白くなくなってしまったから。
なぜ面白くなくなったか、というと「周りの目を気にするようになってしまった」からだ。

生まれたてのメディアというのはいつも「自由にものを言える雰囲気」を持つけれど、
これは、文化がまだ出来上がっていないから、ということで説明がつく。

本でもテレビでも、あらゆるメディアがそうだけれど、
黎明期というのは「なんでもアリ」なのである。

それが、徐々に成熟するにしたがって先例ができていき、
「だいたいこうやるのが正解」みたいな、
暗黙のルールが出来上がってくる。

Twitterも御多分に漏れず、暗黙のルールが出来上がっている。

これが文化(の一側面)であり、自由な発言を阻害するものとなる。


「規模」による阻害

当然の話だが、規模がでかくなると自由にものを言えなくなる。
刺激的なことを言えば、かみつかれる可能性が高まるから。

とりわけ、規模の問題がTwitterに対してクリティカルに作用するのは、
Twitterが技術的にフラットな世界だからであろう。

例えば逆に縦割りの組織があったとして、
その場合は、一兵卒が将軍にものを言うことはできない。

でもフラットな世界なら、それが可能になる。

結果として、有名になるほどたくさんのアホにかみつかれ、
かみつかれるのが面倒だから、伝える言葉を選別するようになる。

もしくは何も言わなくなっていく。


そして鍵付き運用へ

上記の条件が揃ってくると、自由な発言はもはや不可能である。

そのときに圧倒的に有効なのが、鍵付きという選択肢だ。

  • フラットな世界を自分の範囲で区切り、規模を小さくすること。
  • 自分の文化圏を作ること

鍵付きならこれができる。

有名な人はどんどん鍵付きになっていく気がしている。
(信者集めに熱心な有名人は別として)