「コンテンツ」って言葉が嫌いだ
ぼくは、コンテンツって言葉が嫌いだ。
そう感じている人も、もしかしたら少なくないと思う。
でも、なぜ嫌いなのかは、なかなか言語化しにくいことだった。
今回、それについて、そこそこな仮説が立てられたので記しておきたい。
まず、コンテンツって言葉が何を意味するのか。
・文字とか画像とか、動画とかを使った何らかの表現物
おそらく、こんな意味だろう。
具体的にいえば、文章、イラスト、写真、マンガ、アニメーション、実写映像など。
それを「ひとくくり」にしたのが、コンテンツという言葉である。
ではなぜ、「ひとくくり」にする必要があるのか。
ぼくは、ここにコンテンツという言葉の気持ち悪さがあると思う。
考えてみてほしい。
コンテンツって言葉は誰が使うのだろう。
例えば、アニメーションの作り手は、自分の作っているものはアニメーションと言い、マンガ家ならマンガと言うだろう。
作り手は、自分の作っているものを、あえてコンテンツだなんて言うわけがない。
じゃあ、誰がコンテンツって言葉を使うのか。
それは作り手ではない。プラットフォーマーであろう。
WebメディアならWebメディア、appストアならappストア、amazonならamazon。
つまり、枠組みを作っている人たちだ。
彼らにとっては枠組みを作ることが仕事で、
その中身は、訴求力があって、魅力的であれば「なんでもいい」のだと思う。
でも、作り手からしてみると、「なんでもいい」ってのはバカにされていると感じるのではないか。
自分が買われていないと感じるし、「あなたは代替可能ですよ」と言われているとすら感じる気がする。
だから、コンテンツって言葉には、
「プラットフォーマーが作り手を軽んじている」、そんな意味合いを感じてしまうのだ。
ちなみに日本語では、魚のブリを、大きさごとに異なる名称で読んだりする。
それは、日本人にとって魚が身近であって、たんぱく源としても非常に大事なものだったからではないか。
言うなれば、
「大切なものには、たくさんの名前が付く」
「大切じゃないものには、名前がつかない」
ということなんじゃないか、と思う。