成熟した社会における他力本願
隣の席の新人さんにイレギュラーなことを聞かれた。
それは会社の事務的なことだったけれど、「こうすればいいのでは?」と伝えると「なるほど、そういう救済措置が」という反応が。
しかし別にそれは、会社のシステムとして救済措置が容易されているわけではない。
既存の事務処理を応用しているだけのことである。
「救済措置」という発想はどこから来るのだろうか。
少し考えてみたが、「この世の中にはあらゆるレールが敷かれている」と思えばそういう発想も出てくるのかもしれない、と思った。
登山道に例えて考えてみよう。
今、登山に行こうとすると、どの山でも登山道が整備されていたりする。
ところが、大昔に山に登っていた人は、そんな登山道を行くはずもなく、いや、整備された登山道自体があるはずもなく、藪を分け入って自分でルートを決めて登っていた。
そんな昔であれば、「道がなければ自分で作る」という発想が普通だったはずだろう。
今は違う。
登山道があるのは自明のことになっているし、きちんと整備もされている。
そんな時代を生きる若者たちが、「道がない」というシーンに直面するとどういう発想になるのか。
「道がどこかにあるはずだ」という発想になるのではないか。
つまり、整備されているのは当たり前だから、自分は正しくて、道を用意しない「お上」が悪いという発想。まさに他力本願の発想である。
ここでは登山道を例にしたが、このようなことが社会システムの中でたくさん起きているのではないか。
しかしこうなるのも、社会の成熟過程における、ある段階であって、別にそれ自体が悪いわけではない。
今はもう、他力本願の時代のピークは過ぎた気すらするが、新人さん世代には逆に、「他力本願」ど真ん中の発想を感じた。
そこが違和感を覚えた原因なのだろうなあ。