荘子と作為
「荘子と遊ぶ」を読んだ。肩の力が抜ける良い本だったので、少し書きたい。
本の一説に、こんな言葉がある。
「好きだ嫌いだと言っていたら結局我が身を傷つける」
この本によれば、すべてのものはそれぞれ「もちまえ」を持っている。花は花、人は人、糞尿は糞尿と、あるがままの姿・性質を持っている。
すべての存在は、その「もちまえ」を発揮して、自然な流れに身を任せればよい。しかし、そのベースの上に「好き嫌い」をのっけてしまうから、話がおかしくなる。自然な状態ではなくなる。
個人的には、「好き嫌い」は、イコール「作為」であると思える。
作為とは「自分が得するように施策をめぐらすこと」。
・自分が得するように「他人に働きかける」(対外的な方向性)
・自分が得するように「仕事をサボる」(内向的な方向性)
この2つの方向性はあると思うが、いずれにしても「自分が得するように行動すること」という意味では共通している。
作為は人に伝わるし、自分の得だけを考える人に、人は心を許さない。だから結局自分が傷つく。作為はまったく余計なことである。
では、作為がない状態とは何か。
例えば、何かに集中している状態、ではないか思う。
集中しているときは、過去も未来も考えない。
ただ「今」目の前のことだけを見ている(非常に、禅っぽい)。
ではさらに、集中するためにはどうするか。
「追い込まれること」しかないんじゃなかろうか。
ちょっと前にそんな記事を書いた。
「荘子と遊ぶ」の後半にも、似たような一説があった気がする。
必要性があってはじめて人は動く、的な。