かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

盲目、という自己防衛

現実を見たくない だって自分が傷つくから
自分を見たくない だってきっと取るに足らないものだから
何も見たくない そうすれば傷つかないから

そうして人々が盲目になっていった現代でございますが。
果たして、私たちはどうすればいいのでしょうかねえ、と答えのない問いが常にあるわけで。

お山の大将が許されないネット

上には上がいる。下には下がいる。
当たり前のことだけど、ネット以前はなかなかそれが見えてこなかった。

小学校を例にしてもいい。テストの点数がいい。足が速い。モテる人ってのはそんな人たちだった。彼らもそれで自尊心を満足させることができた。

井の中の蛙。お山の大将。

言葉は何でもいいですが、まあ閉じた世界で成立する自己承認環境だ。

でもあるとき、ネットにつながった誰かが言うんだ。別の学校のあの人の方が頭がいい、足が速いって。

そらそうだ。上には上がいる。永遠と。キリがない。だけどネットがそれを可視化してしまった。そして彼ら(僕ら)は自尊心を満足させられなくなっていってしまった。


盲目という名の自己防衛

でも自尊心っていうのはけっこう根源的な欲望で。「自分に価値がある」と思えなければ、人間、生きていくのがつらくてつらくてしかたがない。

じゃあ、自尊心が得られないときに人はどうするか、というと、自己防衛が発動する。つまり、都合の悪いものは見なくなる。自分を肯定してくれるものだけを見るようになる。それは自然な流れとして。

はじめは意図的に見ないようにしていても、そのうち無意識的に見なくなり、「見えなく」なる。そして人は盲目になっていく。


そして自尊心は暴走する

盲目になれば生きやすい。するとどうか、自尊心が暴走する。自分が絶対的に正しく、「外部」は間違っている、そんな自己認識を得るにいたる。

その「外部」は、自分の都合のよいように解釈している世界にほかならないから、その解釈が成り立つ。そこに客観性はない。

ちなみに僕は別に、客観性があるから良いとか悪いとかを言いたいわけじゃありません。客観性がまったくなければ、逆に生きにくくなる、ということを言いたいのです。

現実問題として、まず人間は社会的動物であって、集団として生きている。でもそこに一切の客観性がない人が入れば、その人は集団のルールを把握できず(盲目だから)、まわりから総スカンを食らう。

客観性ゼロの人間は集団から排除されるしかなくなるので、主に経済的に生きにくくなる、という話。

生きやすくなるために盲目になったのに、集団では逆に生きづらくなるというパラドックス。これがいま、20代を中心に起きていることだと思う。


暴走から脱するためには?

盲目は自分の殻と言い換えてもいい。そこから脱するにはどうすればいいか。

その答えは残念ながら僕は持っていないが(なぜなら脱したいともがいている最中だから)、今やっていることといえば、このブログがある。

そのときどきに感じた思いを「吐き出す」ことが大事なんじゃないかと。

盲目状態だと、客観性をなくすのと同時に、自分の「生」の声も見えなくなる、と思う。なので、デカルトじゃないけれど、「生」の声がどこにあってどんな形をしているのか、それからはじめよう、と思ってこのブログをやっている。その効果や如何に。