かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

多様性とバベルの塔

「多様性」という言葉が最近よく聞これる。同性婚だ、管理職の女性比率アップだ、移民だ、なんだと。ぼくはもちろんそれらを否定するつもりはない。多様性がもてはやされるのには、歴史的な必然性があると思う。けれど、この言葉は最近あまりにも無自覚に礼賛されているのではないかと感じる。

とどのつまり、多様性は他者への無関心を生むものだ。
そして無関心はなぐり合いを生む

 

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旧約聖書の逸話で、バベルの塔というものがある。

人間は力を誇示するため、天にも届こうとするバベル塔を建てようとする。しかし、神はその傲慢を許さず、それまで一つだった言語を乱し、人間たちをばらばらにした。バベルの塔は完成することはなかった。

ぼくの認識をざっくり述べると、要するに社会の発達段階として、個人→小規模コミュニティ(会社など)→大規模コミュニティ(国家など)→個人→……、という繰り返しがあると思っている。そしてバベルの塔の逸話は、大規模コミュニティ→個人に移行する段階を描いたものだと思っている。

大規模コミュニティを成り立たせるためには、何らかの軸がいる。これは現代においてはお金=資本主義である。しかし、資本主義の勢いはもはやひと段落ついているので、過去ほど強固な軸にはなりえない。すると今後はバベルの塔のように、ばらばらになっていく、という流れになり、言語がばらばらになったように、あらゆるものが多様化していく。

 

バベルの塔の逸話では、多様化した「後」の話は書かれていない(と思う)。

でも、大規模コミュニティが機能しないということは、資源の再分配が行われないということ。つまり、貧しいものはより貧しく、富めるものはより富む、というように弱肉強食の時代になる(なっている)。

貧しくても、食えているうちはいい。食えなくなったらどうなるか。
奪い合い、なぐり合うしかなくなる。

ということで、嫌な未来しか見えずげんなりするが、個人としてはなぐり合いの時代に備えて力を蓄えるしかない。