拘束について 良い拘束と悪い拘束
ふつう、拘束は否定的な意味でとらえられる。
社会人にとっては、仕事が終わらない、でも締め切りがある、上司の圧力もある、
そんなときに、自分の席に拘束される。
子供にとっては、それは危ないから、宿題が終わっていないからといって、
親から拘束を受ける。
拘束、という言葉には、そんなネガティブな意味合いがまとわりつく。
でも、ぼくは最近、拘束って、実は素晴らしいんじゃない?って思う。
例えば映画。
映画館では身体の自由を奪われる。
拘束され、スクリーンに映し出された映像を2時間くらい見続けることを課される。
でも、それをみんな楽しんでいるし、自ら拘束されにいっている。
これはなぜだろう?
それはたぶん、拘束されること自体が、映画に集中せざるを得ない環境になっているから。
映画はテレビでも流されるけれど、
テレビの前のぼくらは拘束されない。
席を立つ自由もあるし、寝っ転がる自由もあるし、チャンネルを変える自由もある。
そんな環境では、映画に集中・没入することはとてもムズカしいことだ。
それに比べて映画館では、拘束されることによって、映画を観ることにすべての力を注ぐことができる。
これが、拘束の素晴らしい点のひとつめ。
もうひとつは、自分の実力を付ける、という点において、拘束はなければならないものなんじゃない?ということ。
才能は、拘束の中から生まれる。
・幼少期が貧乏だったから、人に負けじと努力できるようになる。
・人とうまく接することができなくて、音楽によって、人との接点を持とうとする。
そうしてパリコレに出たり、すごい音楽を作れるようになったりする。
それらの才能は、拘束から解き放たれるために、もがくことによって磨かれていく。
拘束の中にいる本人は苦しいだろう。
ときには拘束に耐え切れず、自分の心を閉ざしてしまったり、自分の身を消してしまう人もいる。
だけど、拘束の中でもがくこと。
それだけが特異な自分を作り出し、価値のある自分を作り出すことができると信じる。
親の七光りという言葉は、その対極にいる人たちのことを指す言葉である。
良い拘束と悪い拘束があるとすれば、
「人為的かどうか」が基準になるのではないか。
親が貧乏など、環境による拘束は「しかたないから」と受け入れられるけれど、
誰かの理不尽な拘束は禍根を残すのみ。
仕事は「区切る」からダメになる?
夏休みの宿題は最後の日にまとめてやる。
仕事の納期も、締め切り間近になってようやくやる。
それは、人間のひとつのあるべき姿だと思う。
一方で、管理職というか、合理的に、効率的に進めたい人にとっては、それでは困る、という話になる。
実際、前もってやる人も少ないけれどいるわけだから。
最近ふと思ったのは、「区切る」ということに関係しているのかな、ということ。
つまり、夏休みの宿題も、仕事の納期も、「区切る」からダメになるんじゃないか、と。
「区切る」ことによって人が動き出すのは、「そろそろヤバイ。間に合わない」という危機感を喚起するからだろう。
管理職の役割として、細かく期限を区切ってマイルストーンを作ることが言われているが、この意味で、これは一つの正しい方策だろうと思う。
では、区切らないとどうなるか、というと、その人のモチベーションに左右されるようになる。
その宿題なり仕事なりが楽しければやるし、楽しくなければやらない。
そんな風になるんじゃないかと思う。
その宿題なり仕事の影響範囲が小さければ、それでも回ると思う。
けれど、今は後期資本主義であって、影響範囲が大規模であることが多い。
資本主義の世の中では、個人のモチベーションに頼ることは非常に非効率的だ。
だから、「区切る」ことで人を動かすしくみが徴用されているように思う。
でも、ホントは「モチベーション」で動いてもらった方が、成果もよいものになるだろうし、その人の精神衛生にもよかろう。
だから、モチベーションを上げて、「自走」してもらう環境を作ること。
これが管理職的なものの役割として、ますます重要になってくるのではないか。
「区切る」ことで人を動かすか、「モチベーション」で人を動かすか。
前者が社会にとって必要なものであるとすれば、後者は個人にとって必要なもの。
人は一人では生きていけないので前者がなくなることはないけれど、
これからは後者が大事になっていく。
そんな気がしている。
【蛇足】
「区切る」という概念は時間に対しても、空間に対しても、仕事の役割に対しても当てはめられると思う。
区切れば区切るほど、社会にとって好都合になる(合理的になり、管理しやすくなるから)。
けれど、それは特に、社会が安定している段階に有効な方法である。
今のような衰弱期には、それが枷となって、あらゆる社会病を作り出している、と思う。
本がおもしろい
最近、本を読むのが面白い。
読みたい本がいっぱいある。
地理の本とか、政治の本とか、人類学の本とか、アニメの本とか。
今は本を読むことで、
自分の世界認識が深まっていく感覚がある。
昔は義務感で読んでいたことはあるが、それとは全然違う経験になっている。
しかし、その一方で、ゲームをする時間が減った。
小学生のころからあれほど好きだったのに。
ゲームは、ぼくの鬱屈した青年期を色鮮やかなものにしてくれたし、つらいときに寄り添ってくれた。
ゲームにはそんな力がある。
ありがとう、ゲーム。
ゲームは未だに好きだから、まだ、細々とやり続けるのだろうと思う。
さて、一般的に「本はいいもので、ゲームは悪いもの」という言説がある。
でもそれは、間違っていると思う。
ただ、ゲームをしたいときはそういうタイミングで、本を読みたいときはそういうタイミングなだけだと思う。
ざっくりまとめてしまうと、「年齢」と、「環境」のせいだと思う。
現実世界が心底つらければ、仮想世界であろうと自分がヒーローとなれる、ゲームがすごく役立つ。
現実世界に向き合える年齢になったとき、もしくは向き合わざるを得ない環境にいるとき、本はすごく役に立つ。
ただそれだけの話ではないか。
だから、
本がいいとか、ゲームが悪いとか、そんなことを言う人は信用してはいけない。
過去の人間関係から考える、仕事の選び方
社会は人と人との関係で成り立っていて、
仕事はそこから生まれる。
だから、仕事とは、人と「どう」関わるか、とイコールなのかもしれない。
そう考えると、
仕事の選び方に仮説を立てられる。
つまり、
人との関わり方において、
自分はどういう立ち位置が気持ちいいのか。
それを過去の人間関係に照らして、思い出してみるのはどうか。
ちなみにこのとき、
「気持ちいい」と感じるかどうかがポイントだと思う。
気持ちいい、というのは、
自分の苦労に対して、人からもらう感謝の量が大きいときに感じる、と思う。
それはつまり、自分が「向いていること」である可能性が高い。
とはいえ、幼少期と大人で性格が変わる人もいる。
ディフェンシブな人がオフェンシブに変わったり。
そこは含んで考えなければいけない。
身銭を切る、人の金で買う 体験の違い
「参考書を買うときに、会社の金で買うな、という意見もあるけれど、身銭を切ったときと何が違うのか。同じである」
誰かがそんなことを言っていた。
え?そうなのかな?と思って1ヶ月くらい考えていたけれど。
僕の結論。
・得られる物質は同じだけど、体験は変わる。
やっぱり、お金が絡むっていうのは大きいことなんだと思う。
何しろ、「身銭を切る」って言葉の通り、自分に「痛み」がある。
その結果、「当事者」になる。
「身銭を切ったのだから、しっかり読もう」
本を読むときにも、それが出るんだと思う。
会社の金で買った本なんか、確かに物質として手元には来るけど、
どこか「他人事」として存在している。
他人事になんか、腹を据えて向き合う人はいない。
別の切り口になるが、倫理の問題もあるかもしれない。
会社がどんな参考書でも買って良い、と宣言しても、
「自分の読む本は自分で買うべきだ」という倫理があれば、
どこか後ろめたい気持ちが残る。
それはすごく、気持ち悪く、
ベタベタと、いつまでも残るやつだ。
下り坂の社会を肯定するための「大義名分」
「持続可能性」「サスティナブル」という言葉が流行っている。
地球温暖化や、プラスチックといった環境問題。
それを何とかしましょう、うちの会社は何とかしようとしています、という意思表示として、この言葉は使われる。
これに関して、ちょっと思いつきがあった。
これらの言葉は、下り坂を肯定するための「大義名分」なんじゃないか、と。
先進国の社会はすべからく下り坂に入っている。
高齢化の問題を抱え、GDPの伸びもイマイチである。
それが現実である。
でも一方で、その現実を見つめるのは非常につらいことでもある。
そこで、どこからともなく出てきたのが、「持続可能性」「サスティナブル」という「大義名分」だったんじゃなかろうか。
・われわれは縮小均衡の道を行く。けれどそれは単なる下り坂ではなく、環境問題に真摯に取り組む姿勢である。
そういう意味での大義名分。
つまり、下り坂を見つめるつらさを、緩和するための言葉とも取れる。
ぼくが就職活動をしていたとき、「アットホームな職場です」「やりがいのある仕事」と書いてあるのはブラック企業だ、とネタにされていた。
それは、「お金が儲かる」とかいう保証はできないから、別の価値基準を持ってきたということである。
「持続可能性」「サスティナブル」という言葉も、使われ方はそう違わない。
直視しないための、言葉のマジック。
良い悪いは別として、結構いろんな場面で使われているな、と思った次第。
自分祭りとエネルギー
会社の先輩に、自分祭りが大好きな人がいる。
自分のすごさを内外にアピールし、それをエネルギーに変えていく。
しかしその一環として、人を軽んじる言動も目立つ。自分のすごさをアピールするには、人を貶めるのが一番ラクだから。
その槍玉に上がるのは、だいたい彼の後輩である。まあ、ぼくのことだったりするわけだが、それが原因で会社を辞めていった人もいる。
そんな彼とどう接すればよいのか。
ぼくの結論は、接しないこと。
接せざるをえないときは、彼の良いところだけを見ること。
仕事で結果は出しているので、そこだけを見るのだ。