かつ消えかつ結ブログ

日々、ポッと浮かんだ考え事を書く遊び場。哲学風味。

「コンテンツ」って言葉が嫌いだ

ぼくは、コンテンツって言葉が嫌いだ。
そう感じている人も、もしかしたら少なくないと思う。

でも、なぜ嫌いなのかは、なかなか言語化しにくいことだった。
今回、それについて、そこそこな仮説が立てられたので記しておきたい。

 

まず、コンテンツって言葉が何を意味するのか。

・文字とか画像とか、動画とかを使った何らかの表現物

おそらく、こんな意味だろう。

具体的にいえば、文章、イラスト、写真、マンガ、アニメーション、実写映像など。

それを「ひとくくり」にしたのが、コンテンツという言葉である。

 

ではなぜ、「ひとくくり」にする必要があるのか。

ぼくは、ここにコンテンツという言葉の気持ち悪さがあると思う。

 

考えてみてほしい。

コンテンツって言葉は誰が使うのだろう。

例えば、アニメーションの作り手は、自分の作っているものはアニメーションと言い、マンガ家ならマンガと言うだろう。

作り手は、自分の作っているものを、あえてコンテンツだなんて言うわけがない

 

じゃあ、誰がコンテンツって言葉を使うのか。

それは作り手ではない。プラットフォーマーであろう。

WebメディアならWebメディア、appストアならappストア、amazonならamazon

つまり、枠組みを作っている人たちだ。

 

彼らにとっては枠組みを作ることが仕事で、
その中身は、訴求力があって、魅力的であれば「なんでもいい」のだと思う。

 

でも、作り手からしてみると、「なんでもいい」ってのはバカにされていると感じるのではないか。

自分が買われていないと感じるし、「あなたは代替可能ですよ」と言われているとすら感じる気がする。

だから、コンテンツって言葉には、
プラットフォーマーが作り手を軽んじている」、そんな意味合いを感じてしまうのだ。


ちなみに日本語では、魚のブリを、大きさごとに異なる名称で読んだりする。

それは、日本人にとって魚が身近であって、たんぱく源としても非常に大事なものだったからではないか。

言うなれば、
「大切なものには、たくさんの名前が付く」
「大切じゃないものには、名前がつかない」
ということなんじゃないか、と思う。

「電車で化粧」とイライラの原因

朝、電車で隣に座った女性が化粧をしていた。
それ自体は、今となっては珍しい光景ではない。

しかし、その人は化粧に20分かけ、ボトルタイプのコーヒーを飲み、お菓子までを食べていた。
そこまでする人はなかなかいない。

 

さて、その人を観察しながら、この人はなぜ「電車で化粧」+αをするのか、分析してみたので記録しておきたい。

 

「電車で化粧」をする人に対して、世間一般でよく言われるのはこうだ。

・マナーが悪い
・みっともない
・だらしがない

私も反射的にそう思ってしまうし、同意する人も少なくないだろう。
そう、彼女らは基本的に批判の対象となる

 

果たしてなぜだろう?
なぜ、彼女らを見るとイライラしてしまうのだろう。

その答えを探るひとつのとっかかりとして、彼女らが意識する「範囲」が挙げられると、ぼくは思う。

 

偏見かもしれないが、えてして女性は、「内」の人である友達だったり、家族であったりには、ものすごく丁寧だしやさしい

友達の誕生日には贈り物をしたり、こまめに連絡したり。
それは傍から見ていてスゴイなと素直に尊敬できる。

ぼくにはとてもできないから。

でもその一方で、「外」、つまり自分と利害関係のない人には冷たい印象がある
冷たいどころか、「透明人間」として認識されていて、見えていないようにすら感じる。

仮にこの傾向が正しいとして、今朝電車で化粧をしていた彼女もそうだと考えてみる。
すると、彼女にとって我々は透明人間だ。見えていない=存在していないことになる

そう考えると、彼女にとっては「電車内」も「自分の部屋」も同じなのかもしれない。

 

本題に戻る。

ではなぜ、彼女らを見ると、周囲の人はイライラするのだろうか。

その答えも、上の仮説の中に含まれている、と思う。

つまり我々は、彼女から「透明人間」にさせられているから、ではないか。

もっと直接的に言えば、彼女から「無視」されているから、ではないだろうか。

 

人が人に対して怒るのは、危害を加えられた場合、とかはあるけれど、
一番イヤなのは「無視」されること、軽んじられることなのかもしれない。

 

それは「いじめ」にも見て取れる。

小中学生時代、ぼくの周囲にも「いじめ」はあった。

いじめの現場では、見た目がちょっと変だ、とか性格が変だ、とか、そんな「からかい」からはじまるが、そのうちそれは「無視」になっていく。

それは、無視こそが一番相手にとってキツいことだからではないか。

 

「電車で化粧」する人を見てイライラするのは、本質的には、「無視」され、軽んじられていることに対する反発なのではないか。

これがぼくの、(いったんの)仮説である。

たぶん、それに対する怒りを、もっともらしく言うために、マナーが悪い、とか、だらしがない、とかいう言葉になるのだと思う。

甲斐がない、と、やる気は出ない

ぼくは元来、コミュニケーションを端折ってしまうのだけれど、
当然ながら、それだと、うまくいかないな、と身に染みて感じている。


例えば仕事で言えば、
先方に何らかの仕事を頼んだとする。

さて、アウトプットが出てきた。
どれどれ。うわあ。ボロボロじゃないか。

締め切りがあるのになあ。時間がない。
じゃあ、こっちで直してしまうか。

面倒だから、先方にはイチイチ直す箇所を伝えないでいいか。


こういうシーンである。

まさにコミュニケーション不全と言えよう。


さて、ここで嫌なのは、

・こちらは頑張らないといけない
・先方はこちらに対して不満を持つ

それによって、こちらが頑張る【甲斐がない】と感じてしまうことだ。


アウトプットがダメなら、なんとかこちらは頑張って、
世に出せるレベルに持っていかなければならない。

それは決して簡単ではないし、苦労も大きい。

頑張ったからには人からの感謝だったり、なんでもいいから欲しいじゃないか。

実際、商品を買った人からは、いい評判が届いたりする。
それはそれでうれしいけれど、「遠い」人だ。効力は薄い。


一方、「近く」の人である仕事相手からは、
コミュニケーション不全から来る不満を持たれている。

返ってくるのは感謝どころではない。
冷たい反応が投げつけられる。


これは、つらい。


コストとリターンで考えると、
こちらがかけたコストと、
返ってくるリターンが全然合っていないわけだ。

これではやる気が出ず、気分は沈む一方である。


これは果たして、コミュニケーションを改善することで改善できる問題なのか。

それとも、そもそも向いていない仕事なのか。

改善しながら答えを探るしかないが、まあ、これだけは確かだ。

甲斐がない、と、やる気は出ない。

「モノ消費からコト消費へ」って本当か? 新人さんを観察して思うこと

今、日本では消費が落ち込んでいる。

それに対して「モノ消費からコト消費へ移った」とか言われたりする。

でも、これって本当だろうか?

ぼくの周囲の新人さんたちは、やたら参考書を買い込む

ぼくは社会人10年目くらいだけど、
1年目、2年目の新人さんに、参考書の量ではすでに追い抜かれそうである。

まあ、彼らが買うのは「会社のお金で」だけどね。

それが影響している可能性もあるので、
まずは「人のお金」と「モノ消費」の関係から考えてみたい。

 

「自分のお金」で買うか、「人のお金」で買うか。
これは、お金が有限か無限か、という話になると思う。

自分のお金なら、いくら持っているかわかるので、有限と感じるだろうし、
会社のお金なら、会社の財務を考えたことがなければ、無限と感じるだろう。

では彼らは、お金を使うのが目的なのだろうか。
それとも、モノを所有することが目的なのだろうか。

新人さんなら、お金を無尽蔵に使いたい、という欲望はあるかもしれない。
今まで、自分のお金しか使うことができなかったから。

でもどちらかと言えば、「モノの所有」が根っこの深い欲望である、と見るのが普通だろう。

つまり、「人のお金」か「自分のお金」かはさほど重要ではないと思われる。

 

さて、では彼らはなぜ、モノを所有したいと思うのか。

これは仮説だが、それは「モノを所有することで、自分が強くなった気になれるから」ではないだろうか。

ぼくの子供のころ、ポケットモンスターが流行った。

このゲームが子供に受けた理由はいろいろあるけれど、
その一要素は「収集」にあると思う。

「収集」することで、自分が強くなったと思える。
その感覚が子供には非常に効いたのだと、ぼくは思っている。

 

ここまでの話をまとめると、

・「モノを所有=収集」することは、「自分の強さを誇示」するための行為である

ということが言える。

 

ではいよいよ、「モノ消費」と「コト消費」について考えよう。

でもこれも、「収集」というキーワードを使えばきれいに理解できるように思う。

・モノであろうとコトであろうと、実は、同じ「収集」であって、自分の強さを誇示する目的に使われているのではないか

こういう仮説が成り立つ。

 

「自分の強さを誇示すること」が主目的で、
そのための手段が「モノ」や「コト」である、ということだ(最近では「トキ」も)。

 

新人さんがなぜ参考書を買い込むのか。

それは、何の実績もなく、不安にさいなまれる今をまぎらわすために、他者に対して、そして自分に対して「自分の強さを誇示するため」である、と考えられる。

 

その手段が「モノ」であろうと、「コト」であろうと、実はそんなに重要ではない。

 

一方、成熟した社会ではモノが均一化するので、価値が薄くなってしまった、という指摘は正しいだろう。
だから、モノ消費からコト消費へ、という標語もある意味では間違っていないと言える。

 

しかし、消費者の欲望、その本質は変わっていないのではないか

これがぼくの仮説である。


「モノ消費」や「コト消費」といった枝葉となる言葉を「したり顔」で言うこと。それを商売にしている人たちがいる。

 

別にそれは否定しないけれど、それに振り回されるだけでなく、自分の頭で考えることはやめずに生きたい。

「SHIFT:イノベーションの作法」は常人でも再現できるのか

濱口秀司さんの「SHIFT:イノベーションの作法」を読んでいるんだけど、「むむっ!これ、常人にはできなくないか?」という感じがしてきた。まだ序盤。

 

濱口さん曰く、アイデア出しの前に、

・「バイアスの構造を見定めて、モデルをつくること」

が大事で、そこに時間をかけている、とのこと。

 

確かに構造が大事だというのはわかる。論文集の中で示されている構造は実に明解で、「なるほど!」となるものばかりだ。

しかし、「構造が見いだせれば」の話である。

 

自分事として、ある企画の構造を考えてみたのだが、これがなかなか難しい。

というのは、どういう「軸」を選択して構造化すればいいかが、非常に悩ましいからだ。
構造が決まればそこからの強制発想は、まあある程度可能かなと思うが、構造が決まらない。

 

読み進めているのはまだ序盤なので、後ろで言及されている可能性もあるが、、期待できないだろう。

 

これが「論文集であって、本ではない(文章だけでは伝わらない)」と公言するのもよくわかった。

 

ただ、いいヒントになるのは確か。
この、穴だらけの「虎の巻」を、自分で埋めようではないか。
(ほぼ日の、濱口さん記事にそんな話が出ていたので、それに重ねて)

濱口秀司さんが、スゴイ

 

最近、というかここしばらく、元任天堂社長の岩田聡さんの残した文章を読み漁っている。
主に糸井重里さんの「ほぼ日」に乗っているものを愛読しているのだけれど、先月かな?、ほぼ日が岩田さんの本を出した。

その名も「岩田さん」。

そして、この本を出したときに糸井さんがインタビューを受けていて、今日、読んでいたら、「岩田さんに似た人」ということで、濱口秀司さんの名前が挙がっていた。

 

「濱口秀司さん?誰だろう?」

 

と思って調べてみたら、ほぼ日のコンテンツとしてあった。

 

濱口秀司さんのアイデアのカケラたち。 - ほぼ日刊イトイ新聞


これがものすごく面白い。


確かに糸井さんが言うように「問題解決の人」というのが行間から伝わってきて、そこは岩田さんと重なる。

両者ともに、「構造」で考える、という力がものすごく強く感じる。

そして両者とも、それを人に伝える、ということをものすごく重視している。

社長業やコンサルという職種にもよるのかもしれないけど、それ以前に「伝わらないと意味がない」という経験をふんできているような気がする。

詳しくは、ほぼ日の記事を読んでみていただきたい。

すごくテンションが上がります。

 

ぼくもテンションが上がってしまったので、つい、濱口さんの“論文集”を買ってしまった。



本ではなく、“論文集”であるらしい。詳しくは以下のページに書いてあるので、ご興味のある方は。「伝わらないことを書いている」という認識も、さすがの一言。

 

古賀史健さんが『SHIFT:イノベーションの作法』著者の濱口秀司さんに訊く「なぜ「本」ではなく「論文集」なのか」 | SHIFT:イノベーションの作法 | ダイヤモンド・オンライン

 

ちなみに、「紙」はなく、「電子」しかありませんのでご注意を。

ビジネス書に対するモヤモヤの正体

ビジネス書って、なんか軽んじられているし、嫌われている。

そんな印象があるのはぼくだけじゃないと思う。

 

たぶんそれは、「根拠」が弱い分野を取り扱っているからだと思う。

マネジメントとか、金融とか、経済とか、マーケティングとか、リーダーシップとか。

中には学問になっていて、体系化されているものもあるけれど、
数学とか物理とかに比べると、どうしても根拠としては弱い。

「1+1=2」って示されるのと、
「成功した個人の経験」を示されるのと、どっちが信じられるか、という話である。

 

さらに言えば、根拠が弱いっていうことは「答えがない」ってことなのだと思う。

マネジメントとか、金融とか(略)の世界に、答えなんて出せないと思う。
あるのは「仮説」だけ。

 

で、タチの悪いビジネス書というのはそこに「答え」があるように見せてくる。

だから、「答え」のない世界で不安を抱える人々は飛びつくし、
そして「やっぱり答えなんかない」と自覚したときに、だまされた、という嫌な気持ちになる。

 

そういう意味で、(タチの悪い)ビジネス書は「答えがないのにあるように見せる」という「嘘」を抱えているのではないか

だから、軽んじられるし、嫌われる。

役立つビジネス書も、あるんだけどね。